太田資宗08 おおたすけむね
生年 | 1600(慶長5)年 |
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没年 | 1680(延宝8)年 |
任期 | 1644(正保元)年~1671(寛文11)年 |
太田資宗とは
幕府の要職を経て、譜代大名となった。3代将軍徳川家光の信頼が厚く、『寛永諸家系図伝』の編纂を行い、その責任者になっている。また、浜松在城中には国政として日光奉幣使の接待や三河国(現:愛知県)鳳来寺の造営を行なっている。
浜松市南区米津町の安泉寺の開基は資宗といわれる。
生涯
1600(慶長5)年に生まれた。父は太田重正、母は都筑惣左衛門秀綱の娘。
1606(慶長11)年、7歳の時に家康に拝謁している。
1610(慶長15)年に父が亡くなると跡目を継ぎ、家康に仕えた。その後、1612(慶長17)年に家康の意向によって秀忠に仕えるようになった。
1633(寛永10)年には六人衆※となり、1638(寛永15)年にはこの職を解かれて奏者番となり、三河国西尾城(現:愛知県西尾市)を与えられ、大名となった。
1641(寛永18)年からは家光の命令で『寛永諸家系図伝』を編纂が始められ、1643(寛永20)年に完成。
1644(正保元)年に浜松へ転封となり、3万5千石を領有した。
1671(寛文11)年、70歳になった資宗は家督を二男の資次に譲り、隠居した。
その後、1680(延宝8)年、81歳で他界している。
※六人衆(ろくにんしゅう)/後の若年寄にあたり、老中に次ぐ地位で旗本や御家人を統括する。
関連項目
参考
『浜松城と歴代城主』(浜松市博物館)
『浜松市史二』
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