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高力忠房06 こうりきただふさ

誕生地 現:浜松市
生年 1584(天正12)年
没年 1655(明暦元)年
任期 1619(元和5)年~1638(寛永15)年
高力忠房とは

二代将軍秀忠に仕え、秀忠の忠房への信任も厚く、関ヶ原の戦いにおいても秀忠を助けている。また、幕府から信頼されていたため、島原の乱の戦後処理では、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されている。
浜松在城も約20年間に及び、城下町の町割りや、宿場町としての機能・財政の整備を行なうなど、治政にたけていた。秀忠や家光の行なった五社神社・諏訪神社の造営にも力を尽くしている。

 

生涯

1584(天正12)年に遠江国浜松(現:浜松市)にて生まれる。父は家康に仕え三方原や長篠などの戦いで手柄をたてた高力正長、母は本多助大夫忠俊の娘。
1599(慶長4)年に父が亡くなると、忠房は16歳で跡目を継いで武蔵国岩槻(現:埼玉県)城主となり、それ以降、二代将軍秀忠から一字を賜って忠長と称し、秀忠に仕えた。
1614(慶長19)年から翌年にかけての大坂の陣では大和国(現:奈良県)の押さえとして働き、武功をたてた。
1617(元和3)年に奏者番となっており、1619(元和5)年には浜松へ転封され、3万1千石を領有した。
その後、1638(寛永15)年には島原の乱の戦後処理のために肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
1655(明暦元)年、72歳で他界している。

 

関連項目

歴代浜松城主

 

参考

『浜松城と歴代城主』(浜松市博物館)
『浜松市史二』
 

 

 

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