堀尾吉晴02 ほりおよしはる
誕生地 | 現:愛知県 |
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生年 | 1543(天文12)年 |
没年 | 1611(慶長16)年 |
任期 | 1590(天正18)~1599(慶長4)年 |
堀尾吉晴とは
豊臣秀吉に仕えた人物で、三中老※の職に任じられるなど、秀吉の信任が厚かった。
浜松在城時には普済寺や西来院の境内や周辺の竹木を伐採することを禁じたり、雄踏の宇布見の塩を採取する浜には年貢をかけたりしている。
※三中老(さんちゅうろう)/豊臣政権末期において制定された役職。五大老と五奉行の仲裁役を担う。
生涯
1543(天文12)年に尾張国丹羽郡(現:愛知県)に生まれる。父は織田信長に仕えていた堀尾泰晴だが、母は不明。
吉晴ははじめ、信長の家来であったが、後に豊臣秀吉に仕えることとなった。
1585(天正13)年からの5年間は近江国佐和山(現:滋賀県彦根市)城主として4万石を領有し、秀吉の九州征伐や小田原攻めにも参戦して軍功をあげている。
1590(天正18)年からは浜松城主となり、12万石を領有した。秀吉の他界後は家康のために他の大老や奉行たちの間を取り持つなど行い、業績が認められたため1599(慶長4)年には越前国府中(現:福井県越前市)に5万石の領地を与えられている。そして家督を子の忠氏に譲り、自らは越前府中に隠居することとしたが、その道中で負傷をしており、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いには参戦することが叶わなかった。
その後、豊臣系の大名であった吉晴の子忠氏は松江へと転封されることとなり、吉晴もそれに付いて松江(現:島根県松江市)へと移った。
1604(慶長9)年には従四位下を授けられているが、同年には忠氏が他界しており、以降は孫の忠晴の後見として松江城の建設に力を注いだ。
1611(慶長16)年に69歳で他界している。
関連項目
参考
『浜松城と歴代城主』(浜松市博物館)
『浜松市史二』
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