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河底になったふるさとの碑かわぞこになったふるさとのひ

所在地 浜松市南区三新町
時期 1980(昭和55)年8月建立
概要

河底に沈んだふるさとの碑は、天竜川の改修に関する記念碑。天竜川の洪水被害を防ぐために行なわれた工事だが、そのために沈んでいった村(弥助新田、古川寄合新田)を思い建てられたもの。

 

碑文内容

1926(大正15)年12月に天竜川の洪水被害を最小限に止めるために川幅を広めたいとの要請があった。1928(昭和3)年に弥助新田と古川寄合新田の十一戸の全家屋の移転と二十余町歩の宅地田畑の譲渡が完了し、河底へと沈んでいった。
墓地もはじめは残された土地に納骨堂を建てて移されたが、1965(昭和40)年12月の廃墓地を機に河輪町興福寺にまつられるようになった。
歳月は流れたが、離散した村人たちは昔を偲び、ふるさと会と名付け毎年一回集いを続けている。

 

弥助新田

現在の三新町の前身である芧野新田は1665(寛文5)年に開墾された。
それから80年ほど経った1744(延享元)年、川越島(現在の中野町)の弥助がこの芧野新田の地先にある天竜河原の原野に注目し、新田開発を計画した。2、3人の同氏と共に開墾に着工したが、困難を極めたため、芧野新田村が資金の一部を負担援助した。
やがて、天竜河口に立派な新田が生まれ、開発功労者の名をとどめるため「弥助新田」と命名された。
その後、1928(昭和3)年に天竜川改修が行なわれ、1950(昭和25)年の浜松市合併直後には川口町となり、現在は三新町に編入された。

 

古川寄合新田

草創時代の詳細は不明だが、宝永年間(1704~11)年に開発された。1928(昭和3)年の天竜川改修による村民離散直後はわずか4家族が残っていただけであったが、そのまま三新町に編入された。

 

参考

『浜松市の石造文化財』(浜松市教育委員会)
『浜松の史跡 続編』(浜松史跡調査顕彰会)
『浜松市石造文化財所在目録』(浜松市教育委員会)

 

 

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