織田利三郎おだりさぶろう
誕生地 | 名古屋 |
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生年 | 1857(安政4)年3月3日 |
没年 | 1923(大正12)年9月19日 |
織田利三郎とは
織田利三郎は、明治中期、ヘチマ、落花生、しょうがなどの特殊農産物の発展と輸出振興に努め、一坪農業の普及などによって遠州地方の農業、浜松市の産業発展に貢献した。
詳細
利三郎は1857(安政4)年3月3日名古屋の俳人である多田利七の三男として誕生。1862(文久2)年に父の友人であった遠州白洲の安福寺の養子となった。
養父母は利三郎を連れて浜松に出てると正福寺を建立。これが今の奥山半僧坊別院である。その後、養父が亡くなると、利三郎は正福寺と境内の土地すべてを奥山半僧坊に寄付した。
利三郎は寺には興味がなく、1873(明治6)年、正福寺の前に玩具店を開き、さらに繁華街へと店を拡張して、張子や人形、かるた、太鼓などを販売し繁盛させた。
仕入れで出向いた横浜で農作物の可能性を見出した利三郎は、ショウガ、ヘチマ、落花生などの栽培を農家にすすめ、農業指導者としても成長していった。輸出品とした。
各地で開催される博覧会や品評会、1895(明治28)年の内国勧業博覧会に積極的に参加。そして産業の発達には団体の力が必要と、1896(明治29)年「五二会 浜松支部」を結成した。
1897(明治30)年には浜松町会議員に当選し、浜松市のために尽力。
1900(明治33)年フランスでの博覧会でヘチマで作った象を展示し好評を博した。
帰国後1901(明治34)年に組合の設立認可を受け、「遠江生姜、糸瓜、蕃椒、落花生同業組合」を設立して利三郎が組合長に就任。田町中通にある浜松物産陳列館の中に事務所をおいた。当時とても珍しがられ、多くの人が見学に訪れた。またその後、浜松町農会が誕生すると初代会長に就任した。
1904(明治37)年にはアメリカシカゴで万国博覧会が開催されることになり、利三郎が出向き、その足で洋風家具やカーテンなどを買い入れて帰国。これからは西洋の生活様式になると、玩具商から洋風の装飾家具商に転換した。
利三郎は全国の小学校に一坪農業を提唱し、自らもしょうがや落花生はもちろん、スイートピーやカーネーションなどの西洋花や野菜を栽培した。
これまでの功績が認められ、1908(明治41)年藍綬褒章を授与された。
1923(大正12)年9月19日死去。田町の玄忠寺に祀られている。その後、「銅像ではなく、石塔を作ってほしい」という生前の本人の希望を受けて、組合が提唱して、高町の半僧坊別院前に利三郎を検証する巨大な石の多層塔が建立された。
人となり
3度の結婚に失敗したが、4度目の妻みね子との結婚で短期な性格が温厚になった。
参考
遠州偉人伝第一巻
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