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平山博三13 ひらやまはくぞう

誕生地 現:浜松市南区西町
生年 1906(明治39)年2月4日
没年 1990(平成2)年1月6日
任期 1959(昭和34)年5月1日~
1979(昭和54)年4月30日
平山博三とは

平山博三は、浜松市の第14・15・16・17・18代浜松市長。任期は、1959(昭和34)年5月1日~1979(昭和54)年4月30日。

 

市長就任まで

1906(明治39)年2月4日浜名郡河輪村(現:浜松市南区西町)の安間家の三男として誕生後、1926(大正15)年奥山村の平山家の養子となった。

早稲田大学卒業後、静岡県庁に勤務し、当時の岩崎市長に迎えられて浜松市助役に就任。市の財政健全化に尽力した。

1959(昭和34)年5月に第14代浜松市長に就任して以来、5期20年にわたり、総合福祉都市建設を柱とした市政に取り組んだ。

 

都市環境整備

都市環境整備では1962(昭和37)年着工、1967(昭和42)年通水式、1968(昭和43)年大原浄水場が完成した三方原用水事業が挙げられる。下水道事業も1966(昭和41)年以降積極的に進められ、水洗化が促進された。

 

交通

交通体系の整備も進め、東海道新幹線の浜松停車に強力な運動を展開して1964(昭和39)年に開通。東海道線も1979(昭和54)年に高架化が完成し浜松駅周辺の土地区画ら整理事業が進展した。国道一号バイパスは1969(昭和44)年開通、国道152号バイパスの第一期工事は1970(昭和45)年に完成した。
東名高速道路は1969(昭和44)年に全通となり、浜松インターが設置されたことに続いて、1974(昭和49)年に浜松西インターも開設された。

 

住宅、施設

住宅整備も進み、遠州浜団地をはじめ多くの住宅団地を建設。この他、1970(昭和45)年に開園し、翌年の市制60周年記念事業で全面開園したフラワーパーク、1976(昭和51)年開設の緑化推進センター、1978(昭和53)年浜松城公園整備などを進めた。

 

福祉

総合福祉都市をめざす浜松として、医療施設の整備も力を入れた。1967(昭和42)年の労災病院誘致、市立高校看護科・市立看護専門学校の設置、1973(昭和48)年県西部医療センター開設に続き、1974(昭和49)年には浜松医科大学が開設され、全国にさきがけて夜間救急室が開設された。
佐鳴荘などの老人ホームも建設され、1972(昭和47)年には老人医療の無料化、1974(昭和49)年には高齢者の市バス料金無料化などが国に先駆けて進めていった。

 

教育文化

市制50周年の1961(昭和36)年に市民会館が完成し、翌年には児童会館、勤労青少年ホーム、青少年の家、青年婦人会館などが完成。1971(昭和46)年浜松市美術館、1979(昭和54)年浜松市博物館、1963(昭和38)年の浜松市体育館、温水プール、武道館、1979(昭和54)年浜松球場などの文化・スポーツ施設も充実させた。また1962(昭和37)年には東京に浜松市学生寮を設置したのも平山市長の発想。当時県の寮運営はあったが、市独自で運営される寮は画期的だった。

 

産業発展と町村合併

1960(昭和35)年に工場誘致条例が成立してからは、河輪団地をはじめとする工場団地を各地に設置し、1979(昭和54)年に中央卸売市場を建設。湖東村、篠原村、庄内村との合併も進み、1979(昭和54)年には浜松市の人口は約48万人となった。

 

市長退任後

このように、今日の浜松発展の基礎を築きあげた平山市長は全国的にも高い評価を受け、1975(昭和50)年には全国市長会会長に就任し、国の各種審議会委員を務めて国政にも参画。
市長退任後は静岡県民放送社長、会長となり尽力。

1987(昭和62)年には浜松市から名誉市民称号が贈られた。
1990(平成2)年1月6日83歳で死去。

 

人となり

「浜松を今日ある姿にしたのは、私がやったのではなく浜松市民がやったんです。市民の協力のないところに市政の発展なんていうことはあり得ないのです。・・・私は本当に幸せな男だと感謝しています」(さよならインタビューコメント)

 

参考

浜松市ホームページ

歴代浜松市長と市政のあゆみ展冊子(浜松市立中央図書館編)

 

 

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