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姫街道ひめかいどう

姫街道のいわれ

姫街道は東海道の脇往還で、遠江と三河の国境を通る道で一番難所だった本坂(ほんざか)を通るため、本坂道、本坂通、本坂越などとも呼ばれた。 
「姫街道」と呼ばれる謂れはいくつかある。
一般的なものを挙げると
1. 女性たちが取調べの厳しい、また危険な渡船を避けて今切関所を避けて本坂道を選び多く通行したからという説。(今切という言葉が縁切れに通じる不吉な響きがあるという説も)
2. 東海道のメイン道路に比べて、小さい=愛らしいという意味からつけられたという説。
3. 昔からある古い路という意味で、「ひねかいどう」が「ひめかいどう」になったという説など。

 

姫街道筋

江戸時代の姫街道は見付宿から天竜川を渡り、現在の安間町(あんまちょう)で東海道と別れて三方原~追分~浜名湖北岸を通り三河に入り、御油(ごゆ)宿まで続くとされるが、道筋には諸説がある。延長はさまざまな数字があるが約61km。
今切の渡船利用を避け姫街道を選ぶ人が多く、東海道の脇街道とはいえ通行が多かった。
市野、気賀、三ヶ日、嵩山(すせ)に宿があり、伝馬が置かれて人馬のとり継ぎが行われていた。

 

通行の記録

・1707(宝永4)年10月4日宝永の大地震で今切に津波が発生する恐れがあり、しばらく渡航が止められたため姫街道に人馬が殺到し混雑したと記録に残る。
・1718(享保3)年徳川吉宗の生母が紀伊から江戸へ向かうため1万~1万五千人の行列が姫街道を通った。
・1729(享保14)年ベトナム北部の象が吉宗に贈られた。
 清国~長崎~大阪~京都~美濃~名古屋~吉田~気賀~見付~江戸のコースで象が通った。気賀の与太夫家に象の宿をつくり留まったことが記録に残る。
・1808(文化5)年伊能忠敬(いのうただたか)が測量の際に姫街道を通る。2月10日気賀を出て三ヶ日に入る。病気で1日三ヶ日に滞在し、12月12日に本坂峠を越えたと記録に残る。その10年後に日本全図が完成する。
・1853(嘉永6)年篤姫が興入の際に通行した。
・1854(嘉永7)年安政の大地震で今切の通行が困難になったため、姫街道の通行が盛んになる。

 

姫街道の工事や活動など

・1915(大正4)年本坂トンネル完成
・1978(昭和53)年新本坂トンネル完成
・2003(平成15)年姫街道沿いの松の木が空洞化で倒れ、道をふさいだことをきっかけに、地元で「姫まつプロジェクト」が誕生。その活動がさらに「姫まつ倶楽部(姫街道松並木を考える会)」と、「葵乃銘品工房」という2つの会に発展し、現在活発に活動が行われている。
・2010(平成22)年現在葵東の追分交差点付近から花川町まで約3.8kmにわたり、クロマツとアカマツの並木が続いている。
・姫街道を歌った曲には、五木ひろしの『姫街道』がある。

 

関連項目

資料アラカルト‐姫街道

 

参考

『姫街道を歩く』 浜松市
『遠州やまべの道を歩く』 浜松市
『姫街道』 静岡県
姫まつ倶楽部より情報提供

 

 

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