水野忠邦みずのただくに
誕生地 | 現:東京都 |
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生年 | 1794(寛政6)年 |
没年 | 1851(嘉永4)年 |
水野忠邦とは
水野忠邦は天保の改革などで知られる江戸時代後期の大名・老中であり、第22代浜松城主である。
出生~浜松藩主
1794(寛政6)年唐津藩藩主、水野忠光の次男として江戸に生まれる。兄が早くに亡くなったため、父の隠居後家督を相続し、1816(文化13)年に武家の礼式を管理する奏者番をしていた。1817(文化14)年老中になるべく自ら希望して、浜松藩へ領土を移し、以来約30年間浜松に在城。しかし実際は江戸生活が大部分で実務は藩吏に任せていたと思われる。
天保の改革
1841(天保12)年48歳のとき幕府財政の再興を目的に、天保の改革に着手。農村復興を目的とした人返令や、株仲間の解散、地方に分散していた直轄地を集中させようと上知令を出したり、金利引き下げ政策を出したりと、多くの法令を定めたが、強圧的な改革が非難を受けた。
記録による浜松入り
・1825(文政8)年大阪赴任途中に浜松に入り、現在の天神町から馬で浜松宿に入り、三方原を見学し天竜川口を巡見した。
・1826(文政9)年江戸へ行く途中に浜松入り。五社、諏訪、八幡宮、秋葉社などに寄り、老中昇任を祈願した。
・1827(文政10)年浜松本陣に立ち寄る。
・1828(文政11)年「きさらぎばかり引馬城に来いりたる日よめる」として
「旅衣たちかさねつつ花よりも なほまたれしは 響にさりける」(浜松市立図書館蔵)と詠む。
雅楽催馬楽のもてなしを受けて佐鳴湖で舟遊びをしたとある(高林家文書)。
その他の事業・改革
政治活動に多くの資金を必要とした忠邦は、上納金を集めたり、講から収奪したり、貸付金を行うなどした。貧富の差が広がり、さらに天保の飢饉が拍車をかけ、1830(天保元)年三ヶ日方面では、浜名おかげさわぎがおこっている。
殖産興業政策で行ったことは数少ないが、佐鳴湖岸の三つ山を開墾。また宇布見前の舞坂浦の新田計画をたてたが、村民の反対にあい計画倒れに終わった。
また楮(こうぞ)の栽培と製紙などをはじめているが、どの程度の成果をあげたかははっきりしない。
1826(文政9)年異国船が吉田付近に漂着したことなどから忠邦は軍事改革を着手。
1833(天保4)年県居霊社建設を助け、自ら県居翁霊社と揮毫。これがのちの県居神社である。
1842(天保13)年以前に高町(現:中区高町)に経誼館という養成所を設立。
失脚~隠居
数々の功績もあれど、水野家の30年にわたる圧力政治への反発がふくらみ、各地で一揆が勃発し、1845(弘化2)年水野家は浜松を引き揚げ、出羽国山形にて隠居。1851(嘉永4)年死去。
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