加藤幸太郎かとうこうたろう
誕生地 | 愛知県豊橋市 |
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生年 | 1901(明治34)年 |
没年 | 1978(昭和53)年 |
加藤幸太郎とは
加藤幸太郎は、「母なる機械」とよばれる工作機械を浜松で発展させた技術者。旋盤を浜松で最初に作り上げた。
生涯
1901(明治34)年11月13日現在の愛知県豊橋市生まれ。あまり裕福な家庭ではなかったため、小学校を卒業するとすぐに鍛冶職人として働き始めた。
1916(大正5)年に母の実家である浜松へひとり移り、日笠鉄工所に弟子入り。親方にすすめられて、働きながら浜松西小学校併設の工業補修学校の夜間で数学や英語、設計製図を学ぶ生活が16~21歳まで続いた。
1921(大正10)年、見習い期間を終えると、日笠鉄工は日楽の天野社長の肝いりで、西遠鉄工株式会社に改組し、幸太郎が技術部設計課部員となる。西遠鉄工は日楽の下請け工場として、ハーモニカ製作用設備機械の整備や木工機械の製造修理で多忙を極めた。
1926(大正15)年日楽の労働争議のあおりで西遠鉄工が倒産するが、シカル盤加工の話を受け成果を上げた。そして1927(昭和2)年25歳のときに、現在の中区砂山地調に加藤鉄工所をつくり独立。遠州織機から仕事を受け、綾装置の金物やワインダーなどを製造した。会社はその後、仕事がまして、現在の中区寺島町に移転した。
当時浜松には地元で造られた工作機械が一台もないことを悔しく思った幸太郎は資金不足の中、1930(昭和5)年に浜松で最初の旋盤を試作。1933(昭和8)年に完成した第一号機は本田宗一郎経営のアート商会浜松支店に納められた。その後、さまざまな形式、サイズ、平面を削る大型平削盤、角材を削る形削盤などを完成。織機機械のカード節約装置なども開発し、織物業界にも貢献した。この間の1936(昭和11)年には「合資会社加藤鉄工所」と社名変更して社長に就任。1942(昭和17)年には市会議員に当選。戦後1948(昭和23)年には業界再建のために遠州鉄興業協同組合を設立して理事長に就任、さらに静岡県鉄鋼業協同組合連合会の副会長を務めた。多くの功績に対し、1962(昭和32)年知事表彰受賞。
1978(昭和53)年逝去。
人となり
弟子入り時代、優れた腕を持つ流れ職人の技術を学びたく覗きにいくと、「馬鹿野郎」となぐられてもその場を離れず、「熱心さに負けた」と職人は根負けして教えてくれることになった。
厳格な中に懇切丁寧に弟子たちへ教え込む人だった。
「昔の鉄鋼今日のことなら加藤さんに聞け」というのが業界人たちの合言葉になっていた。
70歳に近くなっても50歳台にしか見えないほど若々しいと評判だった。
中肉中背のがっちり体系。鼻の下のチョビ髭がトレードマーク。
参考
『遠州機械金属工業発展史』
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