阪本久五郎さかもときゅうごろう
誕生地 | 奈良県北葛城郡 |
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生年 | 1882(明治15)年 |
没年 | 1961(昭和36)年 |
阪本久五郎とは
阪本久五郎は、遠州製作株式会社元社長、自動織機の発明家。
生涯
1882(明治15)年7月28日奈良県北葛城郡当麻村に、農家である久四郎とタツの四男として誕生(8人兄弟)。父は農業だけでは暮らせず木の桶を作って販売し、母と女兄弟は手織仕事で家計を支えた。久五郎は小学校時代から成績優秀。何かに熱中するとムダ口もきかないため「むっつり久五郎」とあだ名がついた。絵を描くのが上手で「春翠」の雅号を使用していた。
中学生のとき父が死去。絵馬を描く仕事をして中学校の学費を賄っていた。
母と姉の織機を見て、改良を考え、たて糸の張り方を調整する経糸張力調整装置を発明した。
1902(明治35)年中学校を卒業後、大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部機械科)に入学し、卒業後は鉄道院の技術官として就職した。1909(明治42)年やゑと結婚。鉄道院に勤めながら、夜は書物で機械研究をしていた。機械を動かしたい一心で1914(大正3)年鉄道院を退職し、大阪の木本鉄工株式会社に入社。第一次世界大戦で機械輸入先のドイツと敵対したため、代用機械を開発した。
1919(大正8)年会社を辞め、いくつか大阪の会社を経て、1921(大正10)年大阪の財界人の薦めで浜松の鈴政式織機会社の支配人兼技師長として藤木茂一、高橋菊松、小島清五郎とともに建て直しに入る。広巾用の完全自動織機開発のため仕事場に寝泊りしながらの日々が続いた。
1923(大正12)年遠州織機株式会社と社名変更。1926(大正15)年経糸切断停止装置の発明が完成し特許を申請。1927(昭和2)年緯糸切断停止装置を発明し特許申請。ここからようやく会社に光が見え始め、昭和初期に順調な歩みとなっていった。その翌年、1928(昭和3)年には管巻機を発明して特許取得。1929(昭和4)年工場法改正により、女子や少年工の深夜業が禁止となり、昼間のみの操業で今まで以上の能率維持ができる自動織機が要求されるようになり、製品の売れ行きが急上昇。同年、中華民国を視察し織機注文を受けた。
1930(昭和5)年天皇陛下の静岡県下行幸の際には発明功労者として陛下に拝謁、社団法人帝国発明協会から自動織機の発明に対して優等賞が授与された。
1932(昭和7)年50歳で社長に就任し、翌年1933(昭和8)年に8年型阪本式自働織機を発表した。この年、久五郎は自動で動くのではなく、機械に働いてもらう、という意味であえて自働織機と名づけた。
1934(昭和9)年から2年かけて砂山町から高塚工場へ移転し、杼替式自動織機、阪本式消極的経糸送出装置、高速度緯糸捲返機、高速度経糸整経機などを発明し特許を取得。
1938(昭和13)年になると陸軍省の命令で、工作機械の製造を始めた。
1941(昭和16)年遠州機械株式会社と名称を変更。同年、静岡県知事から産業功労者表彰を受ける。1945(昭和20)年になると終戦とともに工場生産は停止したが、10月には遠州織機株式会社として再開。この頃捲糸装置を発明した。1953(昭和28)年以降、経糸糊付装置、緯糸二本並び防止装置などを発明。1954(昭和29)年の全日本発明展覧会では総理大臣賞を受賞。翌年1955(昭和30)年には阪本式積極的送出装置を開発した。また同年、病院療養中に『力織機の経糸送出に関する研究』という論文を書き、工学博士の学位を取得。
1958(昭和33)年以降になると織布業界も生産過剰で低迷しはじめると、久五郎は工作機械を造り、多角経営に移すことを指示。その後、会社は工作機械の大メーカーとなった。
1960(昭和35)年遠州製作株式会社と改名して社長を阪本藤右衛門に譲り、久五郎は1961(昭和36)年1月3日に逝去した。
久五郎は亡くなるまでに106の特許、209の実用新案を取得した。
人となり
浜松に来て努力しながらも、遠州織機株式会社がなかなか業績が上がらないときにも「どんな辛いときにも忍耐。そうすればきっと道は開けてくる」と皆に話した。
尺八演奏が好き
賭け事がきらいで絵を描くのが趣味。
書画、骨董、刀剣収集もすき。
寄付をよくする人だった。
参考
『遠州偉人伝 第三巻』
『浜松産業史』
『遠州機械金属工業発展史』
『エンシュウ株式会社80年史』
浜松といえば
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