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池谷七蔵いけやしちぞう

誕生地 現:中区大工町
生年 1855(安政2)年
没年 1922(大正11)年

 

池谷七蔵とは

発明家。明治時代、浜松で織物産業が大きく発展していく中、布に柄を付ける作業は手仕事。この機械化を考えた人物。

 

生涯

1855(安政2)年5月5日浜松宿大工町(現:中区大工町)に生まれる。幼いころから温和で、言葉は少なく実行力のある人物だった。早くに父が死んだため、幼いころにとても苦労した。

1885(明治18)年に名古屋の鎮台統工廠に勤め、まじめで頭脳明晰、能率よく仕事をするため、すぐに昇進したが、眼病のため止む無く3年ほどで退職。

その後は光明村(現:天竜区)で、製材用具や農機具の製造・改良業をはじめた。

当時、浜松は織物業が急速に進展していたが、染物の形付けが手作業で、その機械化が求められていた。七蔵は、仕事を休んでも機械研究に取り組んだが、研究も長引き、金も底をつき苦戦する。そんな七蔵を宮本甚七が助け、ついに片面形糊付け機を完成し、1899(明治32)年に特許を取得した。

 

同年、甚七の出資を得て、元城町に特許形糊付機械製造工場を建設。この染色機械は「染物業界の革命」とまでよばれるほど画期的なものだった。

七蔵は、この機械を使って形染布の生産をしようと、1900(明治33)年、成形機の特許を受けると、甚七らの発起人と「木綿中形(もめんちゅうがた)株式会社」を設立し発展した。

(この会社は後に日本形染株式会社となり、浜松の三大会社の一つとなった)。

さらに改良に取り組み、自動成形機、両面形糊付機、丸形染工機など新機械を発明していった。

1905(明治38)年、織機の開発依頼を契機に、日本織機株式会社をおこして、池谷式織機を開発したが、不況のため会社は1911(明治44)年に解散。

その後、七蔵は東京深川で氷かき機やボタン製造機器など、さまざまな機械の考案製作に打ち込んだ。

 

参考

『遠州偉人伝 第一巻』
『浜松産業史』
『遠州機械金属工業発展史』
『日本形染百年史』

 

 

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