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福長浅雄ふくながあさお

誕生地 長上郡飯田村現大塚町
生年 1893(明治26)年
没年 1980(昭和55)年
福長浅雄とは

福長浅雄は、日本最初の旅客機を製造した人物。

 

生涯

1893(明治26)年元日 浜名郡飯田村三郎五郎新田の農家に生まれる。
1903(明治36)年ライト兄弟世界初飛行。飛行時間12秒。高さ3メートル、距離36メートル。
1904(明治37)年浜名郡飯田村立西大塚尋常小学校卒業。
1906(明治39)年浜名郡飯田村立中ノ町高等小学校を卒業し天竜木材会社に就職。
1909(明治42)年兵庫県で父親と製材業を始め、成功して大きな財産を得る。
1911(明治44)年空を飛ぶことにあこがれていた浅雄は、製材会社を兄に任せ埼玉県所沢飛行場で日本初飛行に成功した徳川好敏(よしとし)大尉の助手となり無給で手伝いをする。
1916(大正5)年日本飛行学校第一期生に入学。
1917(大正6)年フランスよりブレリオ型飛行機を購入し自分で「天竜1号」を組み立てたが、エンジンの力が弱く飛行できず。
1918(大正7)年グレゴアシップ型を購入し、初飛行に成功したものの、着陸失敗で墜落。この頃から「墜落王」という名がつけられた。
1918(大正7)年郷土訪問飛行。4万人の観衆が集まったと静岡民報が伝えている。この飛行機を格納する小屋は天竜川河口の小屋だった。
1919(大正8)年福長飛行機研究所設立し、四郎、五郎の弟たちと協力して飛行機の製作をスタート。
1920(大正9)年「天竜1号」製作。
1921(大正10)年飯田村長より表彰状授与。
1921(大正10)年㈱福長飛行機製作所設立して飛行機の設計、製作、民間飛行家の養成をはじめ、全国から6人が集まり研究所で生活をスタート。
1922(大正11)年天竜10号「日本最初の旅客機」6人乗りを製作完成。客室がある6人乗りで当時としては画期的なものだった。しかし当時はまだ飛行機で人を運ぶ法律がなく許可されなかった。
1923(大正12)年帝国飛行協会より表彰される。
1980(昭和55)年8月死去。

現在浜松市立飯田小学校内には「福長コーナー」があり、「天竜10号」の実際のプロペラや模型、浜松市の飛行機愛好家が復元した模型が展示されている。この模型は小型エンジンをつけ、福長兄弟ゆかりの天竜川河川敷で実際に飛行させた。また同小学校正門前には天竜10号のブロンズ像があり、また福長浅雄顕彰委員会も発足されている。
さらに平成になってから飯田小学校では、福長の功績を歌にしたオリジナルソング「大空にかける夢」(作詞 近藤晴子、作曲 古浦朝久)を制作し、学校内で行われる「福長浅雄さんを紹介する会」などで合唱発表されている。

 

製作飛行機

○天竜2号・・・地上滑走の練習用に使われた。
○天竜3号・・・福長は飛行訓練に通っていた津田沼の飛行場から機体を譲り受け、それを改修して「天竜3号」と名づけた。1919(大正8)年設立の「福長飛行機研究所」でパイロット育成に使用された。
○天竜4号・・・操縦が難しく、教官をしていた弟の四朗が時々乗る程度。
○天竜5号・・・地上滑走練習に使われた。
○天竜6号・・・1921(大正10)年に完成。同年11月の飛行大会に参加。エンジン不調と悪天候で不時着したが、滞空 時間記録をのばした。
○天竜7号・・・1923(大正12)年関東大震災の際に活躍
○天竜10号・・天竜10号復元模型。1988(昭和63)年に浜松市の飛行機愛好家が復元。

         小型エンジンをつけ、福長兄弟ゆかりの天竜川河川敷で実際に飛行をした。

 

人となり

幼い頃から聡明で活発な子供。ライト兄弟が世界で始めて飛行機で空を飛んだ頃、浅雄は10歳だった。
「墜落王」という名は単に飛行機が墜落したというだけでなく、質屋の倉に落ちて裁判沙汰になったとか、民家の屋根に落ちて妊婦が早産してその子供に「飛行雄」とつけたなど数々のエピソードからつけられたと伝えられる。
 

 

参考・見学
書籍

翼よ青空にまいあがれ~大空への階段をのぼった福長浅雄

マンガ日本史 傑物列伝

浜松産業史

空駆けた人たちから静岡県民間航空史

施設

浜松市立飯田小学校正門前の天竜10号のブロンズ像

浜松市立飯田小学校福長コーナー

 

 

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